「なぜ勉強をするのか。」
この問いに対する答えは無限にありますが、手持ちの価値観だけで、目先の有用性ばかりを追い求めると偏った答えを導き出すことになります。
特に市場主義が蔓延している世の中では、消費者の視点で「学ぶ」ということをとらえてしまいがちです。
このことについて、評論家の内田樹が鋭い意見を述べています。
“小学校の先生からうかがった話ですが、一年生の教室で授業を始めて、ひらがなを教えようとすると、そこでもう「はい」と手が挙がるそうです。
「先生、ひらがなを学ぶとなんの役に立つんですか?」
そういう質問がすでに出てくる。
「子どもは先生が「はい、ひらがなを学ぶと、これこれこういう『いいこと』があります」 と商品の効能の説明をするのを待っているんです。
商品を買おうとしているわけですから、 これは当然のふるまいです。
店舗にものを買いに来たら、「すみません、これは何の役に立つんですか?
これを買うとどういう『いいこと』があるんですか?
ほかの競合商品と比べてどのあたりがアドバンテージですか?」という質問をする。
それをしないでものを買う消費者がいたら、それは「愚かな消費者」である。
「賢い消費者になりなさい」と生まれてからずっと教え込まれてきたんですから、「はい」と手を挙げるのは当然なんです。
この消代者マインドが、もうあらゆるところに充満しています。
大学でも同じです。
大学の授業で「先生、現代思想を勉強するとどんないいことがあるのですか?」って訊かれたことがあります。
見ず知らずの学生のくせに、僕の方に100%説明責任があると思っているんですよ。
自分は腕組みして「商品説明聴いてやるよ」という態度なんです。
「お前の説明が納得がいったら現代思想勉強してやるけど、説明がつまんなかったり、オレにわかんない言葉とか使ってたら、勉強しないぜ」というわけです。
ほんとに。
そういうふうに教師に訊くのが学生にとっての権利だと思っている。
思わずぶん殴ってやろうかと思いましたけど (笑)。
でも、怒りをこらえて、こんなふうに説明しました。
「悪いけど、僕がこれから教える話は、 君にはまだその価値が計量できないものなんだよ。
喩えて言えば、君には君自身の価値判断のモノサシがある。
そして、そのモノサシを持ってきて、『先生がこれから話すことの価値は何センチですか?』と訊いていた。
でもさ、もし僕がこれからする話が、ものの重さや時間や光度にかかわることだったら、そのモノサシじゃ計れないでしょ。
世の中には、度量衡そのものを新しく手に入れなければ、何の話かわからないこともあるんだよ」
六歳の子どもが手を挙げて「先生、それを学ぶと何の役に立つんですか」と言うとき、 子どもは子どもなりに「有用性のモノサシ」を持っているわけです。
でも、問題なのは、その六歳児のモノサシで世界中の価値がすべて計れると思っていることです。
だから、そういうときは、「バカモン、子どもは黙って勉強しろ!」と言うのでいいんです。”
内田樹『最終講義』より