受験勉強をしていると「何のために勉強するのか」という問いと向き合わなければならないことがあります。
「受験は競争である」ということがよく言われますが、「競争に勝つために勉強する」というのは、勉強する本当の理由にはなりません。
評論家の内田樹は、「何のために勉強するのか」という問いについて、以下のように述べています。
“いま支配的な教育観は「自分ひとりのため」に努力する人間のほうが「人のため」に働く人よりも、競争環境では勝ち抜くチャンスが高いという判断の上に成り立っています。
私利私欲を追求するとき人間はその資質を最大化する。
隣人に配慮したり、「公共の福利」のために行動しようとすると、パフォーマンスは有意に低下する。(嫌々やらされているから)
それが現代日本において支配的な人間観です。
だから、子どもたちの能力を上げようとしたら、とにかく苛烈な競争の中に叩きこめばいいと教育行政の人たちは考えている。
評論家たちも、メディアもそう言い募っている。
学習成果を数値的に公開する。
順位格付けに一喜一憂させる。
勝った人間には報酬を、負けた人間には罰を与える。
勝者が「総取り」し、敗者には何も残さない。
そういう「弱肉強食」型のストレスをかければ、子どもたちは生き残りをかけてめちゃめちゃに勉強するようになるだろう、と。
教育を論じる人たちはそういうふうに考えてきた。
でも、やってみたら、そうはならなかった。
なるはずがないんです。
繰り返し言うように、人間がその才能を爆発的に開花させるのは、「他人のため」に働くときだからです。
人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。
それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うことがどうか、そんなことはどうだっていいんです。
とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。
ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以ては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。
宗教の用語ではこれを「召命」(vocation)と言います。
神に呼ばれて、ある責務を与えられることです。
でも、英語のvocationにはもう一つ世俗的な意味もあります。
それは「天職」です。
callingという言葉もあります。
これも原義は「神に呼ばれること」です。
英和辞典を引いてください。
これにも「天職」という訳語が与えられています。
「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。
他者に呼ばれることなんです。
中教審が言うように「自己決定」するものではない。
「他者に呼び寄せられること」なんです。
自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。
そのことをどうぞまず最初にお覚え願いたいと思います。”
(内田樹『街場のメディア論』「第一講 キャリアは他人のためのもの」29-30頁、光文社新書)
慧眼ですね。
市場原理(競争の原理)という尺度でしか物事を見ていない大人は、子どもの可能性をつぶしてしまっています。
内田樹が述べているように、人間がその能力を開花させるのは、「人の役に立ちたい」と思うときです。
誰かの役に立てることほど嬉しいことはありません。
自分がどのようなかたちで人の役に立てるのか、今はわかりません。
でも、自らを成長させ、能力を向上させることは、その可能性を最大限に広げてくれます。
勉強することの目的は「誰かの役に立つためである」ということを決して忘れずに毎日勉強をしてほしいと考えています。