教育改革をめぐる議論の中で、何度も繰り返されているのは、詰め込み教育の是非です。
ゆとり教育の世代の学力低下は、詰め込みの軽視が原因でした。
「考える力」をつけることが大切だ、というのは当たり前のことなのですが、その際に必ず「覚えること」は軽視されるのです。
この2つは車の両輪であってどちらが欠けても機能しません。
今、文部科学省が推進しようとしているのは、「考える力重視」、「覚えること軽視」の教育改革です。
大学が求める学力や、社会で生活していく上で必要な学力は変わらないのに、またかつて失敗した道に足を踏み込もうとしているのです。
「考えること」と「覚えること」は密接なつながりがあります。
思考が記憶を深くし、また記憶が思考を深くしてれるのです。
ヘレン・ケラーとサリバン先生を描いた『奇跡の人』という映画があります。
聴力・視力を失い、話すことさえできないヘレン・ケラーの家庭教師としてやってきたのは弱冠20歳のサリバン先生でした。
ヘレン・ケラーの両親が、あまりのスパルタ式で娘に言葉を覚えこませようとするサリバン先生を問い詰めます。
「先生のやり方は、娘に無理やり意味もなく言葉を覚えこませようとしているだけに見えます。そんな暴力的なやり方はもうやめてください」
それに対してサリバン先生が言いました。
「いいえ、このやり方でいいのです。まずは覚えないことにはすべては始まりません。意味はあとからついてくるのです」
あるときサリバン先生はヘレンを井戸端まで連れて行き、ポンプの水をヘレンの片手の手のひらに注ぎながら、別の手のひらに指文字で何度も「water」と綴ります。
突如としてヘレンの中で言葉と物が結びつき、この手にあたる冷たいものが「水」であることを理解するのです。
ヘレンが、「ワーラー!ワーラー!!」(water)と叫ぶ、映画「奇跡の人」のラストシーンは、この時のヘレンの驚きを表しています。
この世にあるすべての物に名前がある。
「水」、「草」、「木」、手に触れる全ての物に名前がある。
「water!」、「grass!」、「tree!」
手に触れる物の名前を叫びながら草原を駆けて行くヘレン。
今まで認識していた世界が崩壊し、「言葉」という全く新しい世界観で書き換えられていく。
サリバン先生が根気強く言葉を覚えさせ続けたことにより、ついにヘレン・ケラーの口から言葉があふれ出した瞬間でした。
物事の本質を理解するためには、それに到達できるだけの材料や言葉があらかじめ自分の中に用意されていなければ不可能なのだということを物語るシーンです。
かつての日本の教育は「素読」といって、何度も音読をして暗誦ができるようになることを重視していました。
素読する教材は、子どもには到底理解できそうもないように思える漢文の古典です。
でも、最初は理解できなくても、暗唱できるくらい読み込むことで、自分の尺度では測れなかった多くの価値を理解することが出来るようになってきます。
このように、学習の最初の段階においては特に、覚えることを重視しなければなりません。
たとえば「英語や古文の読解力をつけたい」というのであれば、まず「文法」と「単語」を本気で覚えなければなりません。
そして、何度も何度も音読をして文の構造をつかめるようにしていくことです。
数学ですら、「暗記した解法を組み合わせて解く」のであって、無から有を生み出して解いているのではないのです。
本物の思考力とは、覚えているものの組み合わせにすぎません。
意味はあとからついてきます。
2学期に身につけた知識を使って最難関の大学の入試問題を解く楽しさを知るために、基礎となる材料をきちんと頭に入れていきましょう。