なぜ古文や漢文を学ぶのか?

中等教育、高等教育において、「古文」・「漢文」よりも、「お金の貯め方」「生活保護、失業保険等の社会保障の取り方」「宗教」「PCスキル」などを学んだ方が有意義なのではないか、という意見があります。

これについて、率直にどう思いますか。

「将来使わないものを学より、もっと直接役に立つことを学んだ方が良いのではないか、という意見です。

確かに、古文はもう使われていない日本語です。

漢文も、古代中国の文語ですので、おそらく将来、使う機会は一生ないでしょう。

古文や漢文を日常語として使っている人はいない。

ならば、もっと将来役に立つものを学んだ方が良いというのは、一見、もっともらしい意見のように聞こえます。

でも、そもそも古文や漢文を学ぶ目的は、「古文や漢文を日常語として上手に使う」ためではないはずです。

学校で設置されている科目(=学習指導要領に定められた科目)を学ぶ目的は、多様な物の見方、考え方(=これを教養と言います)や、学習能力(理解力、思考力など)を養うことにあります。

自分は「勉強とは腕立て伏せのようなものである」というたとえ話をよく使います。

腕立て伏せをする目的は、「腕立て伏せが上手になること」ではありません。

腕立て伏せをするのは腕の筋肉を効率的に鍛えることが目的であるはずです。

そして、腕立て伏せを通じて身につけた「筋力」は、様々な競技でのパフォーマンスを向上させる基礎的な力となります。

それと同じで、古文漢文を勉強するのは理解力、思考力を鍛えるのが目的なのであって、古文漢文が上手に使えるようになるのが目的ではないのです。

古文・漢文を通じて理解力や思考力と言った、学習能力そのものを鍛えている、というわけです。

また、古文や漢文を通じて、我々が使う言語がどのようにして形成されてきたのかという現在の日本語の成り立ちを知ることができます。

作品を通じて、古代人と現代人の感覚の共通点や相違点を見出すこともできるでしょう。

これは、西欧人が古典語であるラテン語を学ぶのとまったく同じ理由です。

それは彼らが使う英語やフランス語、ドイツ語の源流にラテン語があるからです。

自分たちが使う言葉を深く知るために、また自分たちの価値観がどのようにして形成されてきたのかを知るために、ラテン語を学習することが不可欠だからです。

最近では学校教育にも英会話やPC操作などの技能教育に力を入れるべき、との風潮が高まっています。

でも、小学校も、中学校も、高校も、大学も、職業訓練校ではありません。

特に、高等教育機関というものは、学問を学ぶための機関であるということを忘れてはなりません。

「学ぶことの奥深さ」を探究することが高等教育機関の目的であるということです。

「生活保護や失業保険の申請方法」を学ぶことで、学ぶことの奥深さを感じることはできるでしょうか。

時々の状況によってころころと変わる「お金の貯め方」を学校で教えるって・・・。

そもそもお金に換えられないような一生モノの価値を学ぶ場所が、「学校」というところなのではないでしょうか。

「宗教」に対する考え方を教師が子供に教えるというのも、危険性をはらんでいます。

特定の宗教に対する偏見を助長するようなことにつながる可能性があるからです。

「PCスキル」だって、習得して10年ぐらいしたら、時代遅れの役立たずになるはずです。

すぐに役に立つものはすぐに役立たなくなる。

何百年、何千年と時代が変わっても、決して変わることのない普遍的なものを学ぶことが、そもそも勉強することの目的であるはずです。

こうした学問の本質に触れたときに味わえる奥深さを大切にしてほしいと思っています。

一方、日々の積み重ねは地味なものであり、決して楽なものではありません。

でも、こうした毎日地味な積み重ねをしていると、古文に感動したり、現代文や、英語長文に感動したり、歴史のドラマチックなつながりに感動するということが起こります。

勉強することに、知的な興奮を感じ、エキサイティングで、ワクワクすることを見出せるようになってほしいと思います。

 

コメントを残す