勝者による憲法の書き換え

前回、『23分間の奇跡』という作品を紹介しました。

これは、「戦争の勝者による敗戦国の子どもたちへの洗脳が、たったの23分間で完了した」、という話です。

戦争に勝った側によって過去の秩序は否定され、新しい秩序が作られる。

このことを体系的に論じたのが18世紀の思想家であるルソーでした。

ルソーは「戦争および戦争状態論」という論文の中で、戦争は国家と国家との関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の「憲法」に対する攻撃というかたちをとると述べています。

このルソーの見方は本当に慧眼で、近現代における戦争のあり方を見事に言い当てたものでした。

近現代における戦争は、中世における戦争とは全く異なります。

中世における戦争は、国王や貴族によって遂行され、敵対する勢力の砦が1つ落ちたらお終い、備蓄した食糧が尽きたからお終い、農閑期が終わって農民の戦争協力が得られなくなったらお終いにできるものでした。

つまり、国王や貴族の戦争だったころは、「お互いこの辺で手を打とう」ということができたのです。

ところが、近代になって「国民国家」が成立すると、戦争のあり方は総力戦となります。

総力戦においては、ナショナリズムが煽られて国民全員が戦争に動員されます。

すると、国家の戦争の結果が、国民全体の運命と同じになってしまうため、戦争は短期では決着がつかなくなります。

自分たちの正義が通らなかった、自分たちの正義が敗北したでは国民が納得しないからです。

際限なく、相手が力尽きるまで戦争するしかなくなってしまうのです。

そして、相手を全面的に降伏させた後に勝利した側がやることは、相手国が最も大切だと考えている社会の基本秩序を変更する事です。

国が最も大切だと考える社会の基本秩序というのは、近代においては「憲法」にあたります。

日本は戦前において大日本帝国憲法がありました。

そして、大日本帝国憲法の柱は、「天皇を中心とする国体」にありました。

この「国体の護持」こそが、もはや負けることが確定しているのにも関わらず、日本が最後の最後まで降伏できなかった理由であり、大戦の末期に膨大な犠牲を払うことになった最大の原因です。

戦後、この大日本手国憲法はGHQによって全面的に書き換えられられました。

日本が「何としてでも守らなければならない」と考えた、社会の基本を成り立たせる根本的な秩序が、アメリカによって書き換えられたのです。

天皇の地位は「象徴」となり、天皇を中心とする国のあり方をはじめ、人々がそれまで大切にしてきた価値観が大きく変容しました。

ルソーは、相手国の社会の基本を成り立たせる秩序である憲法に手を突っ込んで、それを書きかえるのが戦争だということを指摘したわけですが、まさにこの歴史を予言したかのようなものでした。

倒すべき相手が最も大切だと思っているものに根本的な打撃を与えるのが戦争であり、第二次世界大戦の終結にあたっては、敗北したドイツや日本などの「憲法」という一番大切にしてきた基本的な社会秩序が、アメリカによって書き換えられることになったのです。

このルソーの考え方は、国民国家が成立した後の戦争のあり方です。

ルソーが生きた18世紀という時代は、国民国家成立の過渡期にありましたので、20世紀の総力戦という戦争のあり方や、憲法という社会の根本秩序を書き換えるという戦争の目的まで見抜いていたというのは驚くべきことです。

憲法、というものが生まれる以前においても、例えば中国では新しい王朝ができると、以前の王朝による秩序が否定されるということが繰り返されました。

また、戦後に起こった権力闘争や、内戦においても、勝者が以前の秩序を否定し、新しい秩序を作り上げるということが繰り返されてきました。

中国における文化大革命、カンボジア内戦など、『23分間の奇跡』のようなことが行われてきた事例は数多く存在します。

秩序の書き換えが行われた際、現場のレベルで何が起こるのか。

『23分間の奇跡』ではこのことが描かれています。

「鬼畜米英!」「一億総玉砕!」と言っていた日本人が、アメリカ兵に一斉に群がって「ギブミーチョコレート!」とチョコをねだり、マッカーサーを神とあがめる。

これほどの価値観の激変というものを、戦争はもたらしてしまうものなのです。

自分がこの話が怖い、と感じるのはこの部分です。

ずっと大切にしてきたものを平気で否定してしまうことは、大変恐ろしいことです。

もちろん、戦前のことを美化するつもりはありませんが、「戦前は全て間違っていた」というような歴史観は危険です。

我々が歴史を学ぶ際に、特定のバイアスがかかっていることや、書き換えられた価値観に呪縛されているということは、決して忘れないようにしてください。

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