自分の弱さに葛藤し、苦しむことは決して無駄ではありません

何のために勉強するのか、ということをこのブログで書き続けてきました。

自分がどうありたいか、社会はどうあるべきか。

勉強をするということは、こういう問いと向き合うことです。

自分が高校生のときに観た、野島伸司脚本の「聖者の行進」というドラマにこんなシーンがありました。

知的障害者を雇う「地元の名士」と言われる工場の社長。

しかし、実際は従業員の知的障害者への虐待を繰り返し、奴隷の如く扱っています。

それを知った音楽教師は、一人の老いぼれ弁護士と共にその告発をしようと決断します。

そのために、工場に雇われている知的障害者の親を集め、説明会を開きます。

しかし、当日集合時間になっても誰一人来ません。

親達も知的障害を持つ我が子は正直荷物でしかなかった。

だから「引き取ってもらっている」工場が不利になるような告発はしたくなかったのでした。

誰一人いない説明会会場で呆然とする先生。

親達の本心を突き付けられた先生が、諦めと絶望とでうなだれてしまう中でぼやく。

「…(どんな事実にもくじけないくらいに)もっと強くなりたいですね…」

すると同席していた老いぼれ弁護士が、先生にこんな言葉をかけました。

「強くなることはないんです。

弱い自分に

苦しむことが大事なんです。

人間は

もともと弱い生き物なんです。

それなのに

艱難(かんなん、心の苦しみ)から逃れようとして

強くなろうとする。

強くなるということは

鈍くなるということです。

痛みに鈍感になるということです。

自分の痛みに鈍感になると

人の痛みにも鈍感になる。

自分が強いと錯覚した人間は

他人を攻撃する痛みに鈍感になり

優しさを失う。

…いいんですよ。

弱いまんまで。

自分の弱さと向き合い

それを大事になさい。

人間は…

弱いまんまでいいんです。

いつまでも…

弱いものが手を取り合い

生きていく社会こそが

素晴らしい」

老いぼれ弁護士の役は、いかりや長介さんが演じていました。

人格がにじみ出てくるような、心のこもった台詞でした。

当時自分も受験生でした。

辛いことが重なり、自分の弱いところを嫌と言うほど見せつけられてだいぶ参っていたのですが、この台詞に救われました。

自分の弱さに葛藤し、苦しむことは決して無駄ではありません。

自分の弱さを知れば知るほど、人の痛みを理解することが出来ます。

これからの人生で様々な艱難辛苦を経験した際は、その経験は決して無駄にはならないということを思い出してください。

そして、助けを必要としている人に、いつも手をさしのべられるようであってください。

今、世の中では個人主義が蔓延しすぎているのではないかと思っています。

たくさん勉強してきたはずの社会的影響力のある人が、無責任で利己的なのは大変に残念なことです。

「勉強する」という行為が、どれだけたくさんの人の恩恵を受けて成立しているのか。

受験生は勉強している自分をエラいと思ってしまいがちですが、勉強はさせていただいているものです。

親御さんのサポート、社会からの経済的支援、先人たちの恩恵など、普段感じることは少ないかもしれませんが、「自分は勉強をさせていただいている身分である」という意識を持つことが大切だと思います。

直接的でなかったとしても、自分が学んだことをいつかは社会に還元したいという志を持たなければ、「本当に思い上がった存在」になってしまいます。

受験生である以上、不安で不安で仕方がないのは当たり前です。

でも、どうか自分のためだけに学ぶのではなく、社会にもっと広く目を向けられるようになってください。

世の中には誰かの助けを必要としている人たちはたくさんいます。

将来、自分の力を必要としてくれる人が必ず現れます。

今は自分の無力さを痛感するかもしれませんが、いつか助けを必要としてくれる誰かに少しでも寄り添い、手を差し伸べられるように、目の前にあることを必死に学んでいきましょう。

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