イスラーム世界の学問における最高峰の存在の一人と言わるのがガザーリーです。
「ムハンマド以後に生まれた最大のイスラーム教徒」と言われました。
イスラーム法学の知識で右に出る者はいない、と言われたほどの知識です。
セルジューク朝支配下において、ニザーミーヤ学院で教えていましたが、講義が大人気で、遠く離れた世界からガザーリーの講義を聴講しに来る学生が後を絶たなかったと言われています。
そんなガザーリーの若い頃の話です。
15歳の時、故郷から離れた都市に留学に出ました。
そこで、イスマイーリーという高名な先生に学び、勉強しました。
ところが、留学を終えて故郷に帰る途中、盗賊に襲われて、持っているものをすべて奪われてしまいます。
ガザーリーは何とか食い下がって、自分が留学した際の勉強の成果であるノートだけは返してもらおうと交渉しました。
「これは自分の勉強の成果だから、これだけは返してほしい。あなた方にはそのノートは意味のないものであろうから、お願いだから返してくれ」
そうしたら盗賊はノートを返してくれたのですが、その際にこんなことを言われたのです。
「人に取られてなくなっちまうような学問は本当の学問と言えるのかい?」
盗賊カッコよすぎですね。
これに、ガザーリーは「神からの啓示」なのではないかと思えるくらいのショックを受けました。
この言葉に触発され、その後、師匠イスマイーリーの学問を理解するべく、猛勉強に努めました。
そして3年かけて完全に理解し、自らその体系をさらに発展させるべく学問に励んでいったのです。
その後、ガザーリーは当代随一の学者という名声を勝ち得て、その名声はイスラーム世界の全域にとどろかせていったのです。
このエピソードが示すことは何でしょうか。
勉強というのは、「習う」だけではだめなのです。
それを「消化」し、自分のものにするための時間が必要です。
自分の血や肉としていくためには、向き合う時間が必要なのです。
多くの人が授業を受けて理解するだけで満足をしてしまいます。
でも、それはスタート地点に過ぎないのです。
そこからどのような道を進み、たくさんの山を越えて自分の力で歩んでいく苦難の道があるのです。
「わかる」と「できる」というのは天と地ほど違います。
どうか、習って「わかった」という地点で学習を終わりにしないでください。
そこはスタート地点です。
本当の勉強は、習うことではなく、自分と向き合う時間にあります。
自分と向き合って、習ったことを何度も反芻し、身体に染み込ませ、体得する段階を目指してください。